これでもう迷わない!保育園の違いがよくわかる図

保育園
  • 幼稚園の先生の優しさ

    保育園

    幼稚園の先生のことは今でも良く覚えています。若い女性の先生でしたが、いつも明るくてニコニコしてる優しい先生でした。ある日、私が幼稚園で友達と喧嘩をしたことがありました。てっきり怒られるのかなと思っていましたが、先生は怒ることはありませんでした。喧嘩の内容は何だったか覚えていません。ただ、幼稚園の時にはすでに、私には好きな子と嫌いな子がいました。嫌いな子はどこか調子に乗っていて、人をジャッジして悪口を言ったりするようないじわるな子。どこに行っても一定数いるこのタイプが昔から嫌いで、今でも嫌いなので、きっと何かムカっ腹たつことがあったのだと思いますが、その時の先生はやんわりとその子とは離してくれてなだめるような対応でした。今思うとたいした喧嘩でもないので、怒るまでもないのだとは思います。その幼稚園の先生は、なるべくみんな平等に接してくれる先生で誰かをえこひいきしたり、目立つ子にばかり目を向けるというのは親でも先生でも良くあることですが、その先生はジャッジをしないという姿勢があったところが、あの優しさの正体なのかと思います。笑顔で話しかけてくれたり、大好きという言葉をかけてくれる愛に溢れた先生でした。幼稚園の先生みんながそうだったかというと違ったので、その先生だけ特別柔らかく、優しい雰囲気のある先生だったと思います。

  • 幼稚園の先生に感謝の言葉を送ります

    保育園

    子どもが幼稚園に通っている時、私たち夫婦は共働きでした。どんなバイリンガルスクールが神戸の中にもどっと主人も残業が多く、私も時間が不安定な仕事をしていました。幼稚園のバスは、保護者がその場所に迎えに来られないと乗せてもらえなかったのです。週に何回かは迎えに行けず、子どもを幼稚園に置いたままにして、車で迎えに行くこともしばしばでした。子どもが、幼稚園の明かりの中で、一人で待っているかと思うと、申し訳ない気持ちが込み上げてきて、人気の奈良でも、この保育園はどこでも少しにはいつの間にか泣きながら運転している事もありました。子どもが、お友達と乗りはずだったバスに乗れず、お腹を空かせて一人でポツンと待っているかと思うとやるせない気持ちで一杯でした。私がようやく幼稚園に着くと先生が「もう少し早く迎えに来てくださいね」といつもおっしゃいました。申し訳ない気持ちで帰宅のとに着くと、子どもが今日の出来事を話してくれて安心しました。「ごめんね」というと、子どもが「大丈夫、先生のうちの子も、幼稚園に待ってるんだって。私だけじゃないんだね」と言うのです。私は、ハッとしました。根管治療が専門の岡山の歯科医院は少しも探せずとあんなにぶっきらぼうに言われていたのに、先生は手の空いている先生に任せず、私と同じ事をして子どもの事を見ていてくれた事に、初めて気がついたのです。私は、自分の事しか考えていませんでした。どこの奈良でも評判の大和高田の保育園ではとても子どもの先生は自分の子どもではない、うちの子と一緒に待っていてくれたのです。本当に感謝の言葉しか見つかりませんでした。


  • 引っ越し前に最後まで気にかけてくれる幼稚園の先生

    保育園

    私は、小学生1年生の時に引っ越しをすることになりました。生まれてからずっと同じ場所に住んでいて、違う県への引っ越しなので、引っ越し前に良く遊んでいた人たちとはなかなか会えなくなります。幼稚園は、地元の幼稚園に行っていたために、友達も多く、先生も優しい人ばかりで、卒業をしてもたまに食事にいくことがありました。そして、私が小学生1年生になって親の都合での引っ越しが決まり、それを交流の続いていた幼稚園の先生に伝えました。先生は、残念だと言ってくれて、引っ越し前にみんなで食事に行こうと声をかけてくれました。幼稚園は卒園をしていて、小学生になっても、園児の事や親の事を考えてくれていて、覚えていてくれるのはとてもありがたかったです。

    幼稚園の先生と、私と、親とで食事に行き、幼稚園での出来事や、思出話をするのが楽しかったです。

    幼稚園の時期というのは、子どもがまだまだ社会ルールも分からず、教室でも静かにすべき時に騒いだり、動き回ったり、幼稚園の先生は本当に大変だと思います。

    たくさん園児がいて、そこで一人一人を見ていくのは大変なのに、それぞれの子どもをしっかり見てくれて、暖かい態度で接してくれることに感謝の気持ちでいっぱいです。

    卒園しても覚えていてくれて、大事に考えてくれたことがとても嬉しかったです。

  • 氷の女王の劇でパジャマor真っ赤なチュチュの究極の選択から私を救ってくれた幼稚園の先生

    保育園

    幼稚園の年長の時、お楽しみ会でクラスごとに劇をすることになり、私のクラスは『氷の女王』をやることになりました。私は雪役で、舞台上の役者が登場したり退場するタイミングで「〇〇が来たぞ」と叫びながら舞台を走り回って去るだけの簡単な役でした。劇の衣装は幼稚園が指示した条件を満たすものを各家庭で容易することになっていたのですが、メインの登場人物の衣装はかなり気合が入っていたのに対し、雪役は全身白っぽい服、という指示しかなかったそうです。母は同居していた祖母の介護をしていたこともあり、手の込んだ衣装を用意する余裕がなかったそうです。幼稚園の劇なので衣装合わせなどなく、劇本番の当日に初めて衣装を持っていく仕様でした。母が用意した衣装は、なんとキャラクターものの柄が描いてある白いパジャマを裏返したものでした。要するにただのパジャマです。生地が薄いので裏返しても絵柄がうっすらと透けていました。下半身は白いタイツという指示だったのでズボンすらなく、子ども心にも「これはないんじゃ・・」とショックを受ける代物でした。泣いて拒否しましたが他に白い服もなく、パジャマを持って幼稚園へ行きました。私以外の雪役は2人いたのですが、1人はとても可愛いフリフリの白いワンピースで、もう1人はなぜか濃い水色のワンピースでした。園の指示とは違う色でしたが、注目の的だったのは私の裏返したパジャマにタイツという奇妙すぎるスタイルでした。周りの子ども達から鬼のような突っ込みを受け、水色ワンピの子にまでバカにされ、また泣きました。自分でも裏返したパジャマよりは水色ワンピの方がマシだと思いました。すると、隣のクラスの先生が騒ぎに気づき、担任の先生を含めて数人の先生達がワラワラと私の周りに集まってきました。大人同士小声で深刻そうに、これはないね等言っているのが分かりました。そして、「ちょっと待ってて」と言われ、真っ白で素敵なバレエ用のチュチュを持ってきてくれました。幼稚園の備品だと思います。バレエのチュチュは当時クラスの女子の憧れで、私も思わぬ救い以上の待遇に歓喜したのを覚えています。「ずるい、ずるい」と他の子が連呼する中、私と水色ワンピの子の2人はチュチュに着替えることになりました。ところが、その白いチュチュはサイズが小さく背中のボタンが止まらなくて、結果的に2人とも着ることができませんでした。すると、年配のちょっと怖い先生が、まさかの真っ赤なチュチュを持ってきました。その赤いチュチュはサイズが大きく着ることができましたが、雪役に赤なんてありえないということくらい、幼稚園児の私でも分かりました。水色ワンピの子は赤を着るくらいならこのままでいいと言い、先生も「仕方ないね」と了承していましたが、パジャマの私には真っ赤なチュチュを着るよう強く迫ってきました。氷の女王の舞台で一人だけ真っ赤なチュチュを着るなんて絶対に嫌でしたが、パジャマも嫌でした。どっちがマシなのか分からず、真っ赤なチュチュを着て棒立ちになってしまいました。すると、いつの間にかいなくなっていた担任の先生が、「これなら白いチュチュ着れるかな?」と言いながら走ってきました。手には白いチュチュと、絵本の棚の上に敷いてあったレースの敷物を持っており、チュチュの裏側からボタンがとまらなかった背中の部分にレースの敷物をガムテープで止めて着せてくれました。若干不自然で着心地も良くはありませんでしたが、正面から見る分には全然わからないし、白いチュチュで劇で出られる喜びと安堵で胸がいっぱいになりました。劇の記憶は全然なにのですが、「一人だけ赤いの嫌だよね」とほほ笑みかけてくれた、あの時の先生の顔は今でも忘れられません。

  • 幼稚園でのトイレトレーニングの結果

    保育園

    現在6歳、年長の息子が4歳の頃の話です。その神戸でインターナショナルスクールというとは幼稚園入園するまでにトイレトレーニングが終了していませんでした。早生まれならまだしも、息子は5月生まれ。母親である私はかなり焦っていました。幸い、息子の幼稚園は、オムツが外れていない子はオムツ登園可の園なので、息子も嫌がらず、幼稚園に通っていました。4歳の誕生日を過ぎても、一向にオムツが外れない。むしろ、トイレに行くこと自体嫌がってしまっていて、家でのトイレトレーニングに行き詰まっていました。担任の先生からは、お母さんあまり思いつめないでください。と言われ、いつも教室の端っこでオムツを交換してくれていたのですが、帰宅後先生から電話があり、今日はみんなと一緒にトイレの中まで行くことができましたよ!と報告してくれたり、今日はトイレの個室の中でオムツを替えることができましたよ!と報告の電話が増えてきました。しかし、家では相変わらずトイレに行きたがらず、この姫路で胃カメラ検査ならおすすめのところには終わりの見えないトイレトレーニングに私自身が嫌気をさしていた頃、6月から水遊び、そして来週は尿検査があるという手紙が入っていました。水遊びはオムツが外れていないとできない為、息子だけ水遊びできず、尿検査も提出できないんだなと悲観していた時、また先生から、お母さん、今日おしっこは出なかったのですが、お友達を真似て、おしっこする仕草をしましたよ!と連絡が来ました。その日、夫が息子を連れて家のトイレに誘うことができ、座ったら、おしっこをすることができました!その日から、大便もトイレですることができ、お漏らしもしなくなり、あっという間にオムツを卒業することができました。もし、幼稚園に通っていなかったら、そして優しい担任の先生のご指導がなかったらいつ卒業できたかわかりません。息子は無事、みんなと一緒にプール遊びも、尿検査も提出することができたので、息子のやる気を奮いだしてくれた先生には感謝しかありません。この幼稚園を選んで、本当によかったなと思える出来事でした。今は年長で、今年が最後の幼稚園なので、息子にとって最高の1年間にしてほしいなと思いました。


  • 幼稚園の時先生に褒められた、現在の私に影響する記憶

    保育園

    私は間もなく50歳を迎える女性ですので、幼稚園時代に起きましたエピソードをお話しさせて頂くのに、45年近く前という古いお話しだという事をお許しくださいませ(^_-)-☆。

    当時、私が通っていた園でのランチでは、決まって瓶に入った牛乳の提供がありました。
    瓶の蓋は紙製で、それは手では取れる仕様になっておらず、毎回正式名称は分からないのですが
    例えるなら焼いているタコ焼きをひっくり返す時に使わているような先が尖った用具で開けなくてはいけませんでした。
    その道具がクラス(組)の園児全員分あるわけではなく、クラスに1本や2本といった少なさだったのでしょう、毎回クラス(組)内で回し使っていた記憶があります。

    ある時、私は自分の分の牛乳瓶の紙製の蓋をいつもの用具で開けた後、「ハイ」と今度は貴方の番ね!と隣のお友達へ手渡しました。
    その様子を偶然見ていた先生に、その直後私は褒められることになったのです。
    「えらいね」と。

    私は無意識に”手で握る”部分ではなく”チクチクした尖った”部分を手にして、相手に渡していました。
    それを見た先生は、安全な方をお友達に向けて渡した私の行為を賞賛くださったのでした。

    その時の記憶が濃く、私は今も例えば主人にはさみを渡す時は必ず、はさみの刃の部分を主人に向けることはありません。
    自分の手の平の中に刃の部分を包むようにして安全に渡すのが自分の中の当たり前です。

  • 保育園の先生と娘の笑顔

    保育園

    2歳児の娘が通う保育園は駅近のビル内にあります。コロナ禍での入園、園庭などがないビル内であることから、中が伺えない状況です。そんな中娘が安心して通えているか、楽しめているか少し不安になっていた頃、登園する娘がある先生を見た瞬間「〇〇せんせー!!」とにっこにこの笑顔に。〇〇先生も娘を見ると「〇〇ちゃーん!!」と頭を撫でてくれたりほっぺをむにむにしてくれたり。その出来事以来とても安心して通わせることができるようになりました。迎えに行くと「〇〇ちゃんまたね!」とお友達の声が聞こえ、先生とのかわいいご挨拶「先生さようなら」も聞こえます。初めての子供で、初めての保育園が都市型で、コロナ禍。不安でいっぱいの状況でも娘を笑顔にしてくれる保育園に巡り会えて本当に安心しています。また、連絡帳もとてもユニークでその日の出来事はもちろん、娘についての面白エピソードも盛り込んでいただき、毎日夫婦で連絡帳を見ることがとても楽しみになっております。給食制の保育園で、娘との帰り道は「今日はお肉食べたの」「オレンジ食べたの」「いーっぱい食べたの」とその日食べたものを教えてくれます。連絡帳を見ると「1番に完食」等と書かれており、本当に美味しかったことも伝わってきます。昨今の状況と自宅の最寄駅ではないため不安でしたが、今では娘の笑顔でどんな園なのかが伝わってくるので先生にはとても感謝しています。

  • ピアノが得意な幼稚園の先生に弾き方を教わった時が幸せだった

    保育園

    幼稚園の先生はピアノが得意でした。いつもお昼の時間には生徒に毎回一曲を弾いて聞かせてくれます。そのうまいことといったら、子供の心を奪い、離さない上手さでした。プロのピアノ演奏者ではないかと思うほどの上手さに、ご飯を食べている生徒も思わず聞き入ってしまいます。かなり高度なピアノ演奏を生で、それも無料で聴ける喜びは本当に嬉しいものでした。まったくピアノに興味などなかった私でしたが、どうも弾きたくなってしまいました。そこで、幼稚園の先生に「弾き方を教えて」とお願いしたところ、「いいわよ」と快く承諾してくれます。一緒に椅子に座らせてくれる先生は、後ろから丁寧に、私に「こうやって鍵盤を叩くのよ」と丁寧に指導してくれます。自分で弾いた音を耳にすると、本当に幸せな気持ちになりました。なんて楽器を弾くことがこんなにも楽しいのか、幸せなのかと。それから、私はピアノ前に座り、鍵盤を弾くことが増えました。鍵盤を弾くたびにどう弾くかを覚えることができます。その喜びも嬉しく、どんどん音を覚えてみようとの気持ちになります。家に帰った後はハーモニカを吹いて、自分なりに練習をしました。こんなにも楽器にのめりこむことも初めてです。自分には、このような才能があったのかと思うと、本当に嬉しくて仕方がありません。私は、それから親に頼み、「ピアノが習いたい」とお願いしました。親もお金はかかりますが、ピアノ教室へと通わせてくれたのです。まるで、人生に花が咲いたように、本当に楽しい気持ちになりました。幼稚園では先生と一緒にハーモニカーを吹いて演奏会をするのも楽しいものです。先生も「よく頑張ってるね」と褒めてくれるところに、私はとても感動してしまいました。それからピアノが私の人生のステイタスといっても過言ではないほど、なくてはならないものとなりました。

  • 幼稚園の先生に魔法の消毒液を塗ってもらいました

    保育園

    私が幼稚園の頃の話です。当時のお世話になった保育士の先生のことはよく覚えています。まだ二十代半ばと若く、新人の先生だったのですが、とても明るくユーモアセンスのある方で園児に慕われていました。私も例外に漏れず、先生にとても懐いていました。ある日、友達とかけっこ中に転んで膝を擦り剝いた私は先生に手当てをしてもらいました。膝が痛くて泣き止まないでいると、先生は「いたいのとんでけ」をしてくれました。それでもまだ泣いていたのは、「消毒液はとてもしみるぞ」と、男の子に脅かされたからです。すると先生は「ちょっと待ってて」と消毒液を持って行ってしまいました。しばらくして戻ってくると、消毒液のラベルには折り紙を切り抜いた星が貼られていました。「これは魔法の消毒液なの、塗ると夜にいい夢が見れるんだよ」「本当?」私は先生の言葉を信じ、しみるのを我慢しました。まわりの子たちも興味を覚えたのか、僕も私もと怪我をしてないのに並んで、それぞれ肘だの額だの好きな箇所に塗ってもらっていました。皆が先生を中心にワイワイしているので、私は膝の痛みも忘れて笑顔になりました。とても楽しい思い出です。その日見た夢は忘れてしまいましたが、しみるのを嫌がるうちの子供にも、折り紙の星を貼り付けた魔法の消毒液は特効薬になってくれています。

  • 小さい私に生き方を教えてくれた幼稚園の先生

    保育園

    私は友達の多い幼稚園児でした。私の周りには友達が集まり、いつも楽しそうでした。しかし、ある時、なにがきっかけかはわかりませんし、覚えていませんが、友達がいなくなりました。そんな寂しい幼稚園時代が私にあったのです。それを打開してくれたのが、幼稚園の先生でした。幼稚園の先生は私が寂しそうにしているのをみて、ずっとみていてくれました。私と幼稚園の先生のコミュニケーションはそこから始まりました。私は幼稚園の先生に助けられました。具体的に私のここが悪いとかを言ってくれるわけではありません。それでも私は小さい子供が学べないようなことを学べたと思っています。私が幼稚園の先生に教えられたことは、一つです。「孤立してもいい、自分らしく生きて」です。こんなことは、普通なら小学校や中学校で覚えることです。それを私は幼稚園の時に幼稚園の先生に教えられました。貴重な体験だったと思いますし、幼稚園の先生はさすがだなと思います。以後、私は小学校、中学校と友達に恵まれ、豊かな学生生活を送ることができました。自分らしく生きるということは、自分の意見を言うということではありません。あえて、自分の意見を言わなくても、芯のある心があることなのです。そのことを小さい私に教えてくれた幼稚園の先生に感謝します。