これでもう迷わない!保育園の違いがよくわかる図

2024年2月
  • 子どもより私の方が先生を好きになった気がします。

    保育園

    保育園の先生と初めて出会ったのは入園説明会です。当時、私は年子の娘を入園させるために2人を連れて保育園を訪ねました。年子と言う事もあり娘たちにはいつもペアルックでした。今で言う双子コーデですね。先生がおっしゃるにはペアルックの印象がとても強かった様で入園してからペアルックについて声をかけてもらえました。私が大好きになった先生は当時1歳の娘の担任をして下さいました。初めての育休復帰で娘たちとは離ればなれで不安もありました。それを察して下さったのか迎えに行くと保育園での娘の様子以外にも世間話をして下さいました。当時20代前半で保育園に娘達を預けていてママ友と言うママ友などいない私には迎えに行った時に先生と娘の事や、家事のこと、仕事のこと、家族のこと、いろんな事が話せて本当に楽しみな時間でした。娘が体調を崩し入院した時は土日のプライベートの時間を削り絵本を持ってお見舞いにも来てくれました。あの時は本当に嬉しかったです。娘が2歳になる年に先生は保育園を辞めてしまいました。結婚をし旦那様の実家がある県外に嫁ぐ事になりました。先生が退園し県外に引っ越すまでの間に私たちは連絡先を交換して何度かプライベートでも会いランチもしました。何年か後には先生もお子さんが生まれました。娘が中学生になった今でも連絡を取り合い、年賀状を送り合い、SNSでも繋がっています。なかなか会えないですが大好きなママ友ですね!

  • 幼稚園で人見知りの私を先生が根気よく誘ってくれた

    保育園

    30年以上前の話ですが、私は体が弱く、幼稚園に入園して早々二度の入院をし、クラスになじめずにいました。そのため、毎朝幼稚園に通うのが辛く、少し慣れたと思っても体調を崩して長く休んでまたリセットされるという年少時代でした。担任の先生はメリハリのある、叱る時は叱る怖くもあり元気な先生でした。男の子にいじわるされて泣いていると、先生が叱ってくれるのですが、その時の先生がめちゃくちゃ怖くて、こちらもびっくりする位。けれど、先生は毎朝泣きながら登園する私を毎朝笑顔で迎え入れてくれて、ずっと笑顔で手を繋いで滑り台や砂場、いろんな所に連れていってクラスの子と遊ばせようとしてくれました。母にさえ「いつまで泣くのか」と呆れられるのに、先生は私が園になじめないでめそめそしていることを咎めることも、叱ることもありませんでした。そうして、毎日砂場や滑り台に連れていき、先生自身も滑り台を滑って「楽しいよ!」と声をかけてくれたことも。そうしてもらっている間に遊具や友達との遊びに夢中になることが増え、ふっと気が付くと手を握っていた先生が消えていることが増え、次第にそれも気にならなくなりました。冬に対象を崩して長く登園できなくても、初日に少しぐずる程度ですぐに毎日の遊びや歌に熱中するようになりました。今、当時の先生の年齢を遥かに上回りましたが、あんなに気長に根気よくクラスになじませることは自分にできるだろうかと思うとできません。ただただ頭が下がる思いです。

  • かけっこでびりになっても励ましてくれた幼稚園の先生の話

    保育園

    僕は生まれつき足が遅いことがコンプレックスでした。少しエレメンタリースクールの中で神戸からではもう遠い昔なので記憶は定かではないですが、幼いながらもかけっこでびりになって自分が他の普通の人より劣っていることに無意識にコンプレックスを感じていました。まだまだ精神的にも身体的にも未熟だったのでどうすれば効率よく速く走ることができるのかも調べる能力すらもありません。そこで分からないなりにもずっと走っていれば足が速くなってかけっこで一番になれるのではないかということを思い。どの奈良でも大和高田で採用できる保育士までは近所のスーパーまで駆け足で走って我流で体力をつける練習を無意識にしていました。新川崎でおすすめの消化器内科ならどうしてかは1週間ぐらい練習して足が速くなっただろうと思って、いざかけっこをする運動の時間に練習の成果を試そうとして、一位になれるのかと思いきや結果は変わらず。ビリ。このとき目には悔し涙が浮かんだことを覚えています。冷静に考えれば一週間練習するだけで、足が速くなってかけっこで一位になれるわけがありません。しかし幼いながらも一週間といえど努力が実にならないことが全然プラスにならなかった残酷な現実は子供心ながらに大きな傷を負いました。一人で奈良で話題の保育園を大切にするとかはこのことを幼稚園の先生に話すと、最後まで努力して全力を出し切ること自体が大事なんだよと様なことを言われたことが鮮明に記憶として残っています。大人になるまでは結果が伴わない努力は無駄だと思っていましたが、今となってはなんとなくわかる気がします。他人と比べずに過去の自分と比べてどれだけ前に進むことができるか。どこの神戸でもインターナショナルスクールにはきっとこれが人生を充実するうえで大切なんだなと日ごろから常日頃から考えれるようになりました。


  • 幼稚園の先生とのちょっぴり恥ずかしい約束

    保育園

    幼稚園の年中組の夏、どの奈良の大和高田でも保育士を求めるかは隣町の祖父母の家に私だけ遊びに行き、町で主催された演歌の公演に連れて行ってもらった時のことです。私は祖父母が大好きで、妹が生まれたばかりということもあって、祖父母に甘えまくり、抱っこ抱っこと絡みつき、口には妹がくわえているオシャブリに似た形のアイスをくわえて赤ちゃん返りのような状態で会場入り口に並んでいました。神戸でインターナショナルスクールといってもまさに祖父に抱かれていたその時、「あらっ」という聞きなれた声に振り向くと、なんと幼稚園の担任の先生が後ろにいたのです。私はびっくりしてくわえていたアイスを口から落としてしまい、それを先生が拾ってくれるというカッコ悪いことになってしまいました。なんせ私は、5月生まれでクラスの中では身体も大きく、先生のお手伝いを率先してやるリーダー的な存在の子どもでしたから、神戸ではインターナショナルスクールの学校からは気恥ずかしさのあまり何も言えず俯いてしまいました。きっと先生は私のことを挨拶も出来ないし、赤ちゃんみたいだったと、クラスのみんなに言うだろうと思うと、幼稚園に行くのが嫌でした。翌日、登園してすぐ先生は私に、「昨日は楽しかったねえ」と小声で言い、「Aちゃんと先生の秘密だね」とにっこり微笑んでくれました。その言葉が嬉しくて、評判では奈良が良いと保育園を探すからにはそれまでの心配はどこかに飛んでいき、先生との大切な秘密の思い出になりました。


  • 幼稚園の給食を完食してくるようになった

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    元々食がほそい私の子供は、神戸でインターナショナルスクールといえるころには年長さんになっても幼稚園の給食がほとんど食べられませんでした。先生との面談ではそのことも話しましたが、先生側も困っているようでした。一口頑張って食べても吐き出してしまうようで、無理に食べさせることは家でも幼稚園でもやめていました。先生がどうしたら少しでも食べてくれるだろうかと一緒に考えてくれて、献立表に食べれた分だけ丸をつけ、もっとホームページ制作の仕事が神戸で少しいえるのは本人にも食べられたときの達成感を感じられるようにしましょうとなりました。
    それを1人だけでなく、園全体で実施してくれました。その気持ちだけでも嬉しかったのでそれ以上は先生には求めませんでしたが、次第に子供が「今日はコレに◯つけられたよ」「今日は少しだけ食べて三角だった」と給食の話も自分からしてくれるようになりました。目に見えて自分が食べられたものが分かる様になったことで、まったく食べられなかった日もなにか感じるものがあったようでした。根管治療ならおすすめの岡山の歯医者でここからその方法がよかったのか、あるときからまったく食べられなかった給食が、毎日花丸をつけて帰ってくるようになりました。本人もそれが嬉しいようで、嬉しそうに献立表をみせてくれます。給食を食べないという悩みに真摯に向き合ってくれて、どんなに神戸でインターナショナルスクールでも園全体からの方法を見直してくれた先生に感謝の気持ちでいっぱいです。